歴史と概要

■ はじまり ― 本庄氏の山城としての成立

村上城(旧称・本庄城)は、新潟県村上市東端の臥牛山(標高135メートル)に築かれた平山城です。
築城の正確な年代は不明ですが、戦国時代初期の16世紀前半にはすでに存在していたと考えられます。当地を治めていたのは秩父平氏の流れをくむ本庄氏で、越後北部の「揚北衆」と呼ばれる有力国人の一族でした。

戦国期、本庄氏はしばしば上杉氏と争い、永正4年(1507)には本庄城が落城。その後、房長の子・**本庄繁長(しげなが)**が再興し、上杉謙信に従って川中島の戦いなどで武功を挙げました。
しかし永禄11年(1568)、繁長は武田信玄と通じて謀反を起こし、謙信の攻囲を受けます。地形を生かした堅固な城に籠り半年間耐え抜いた末に和議を結びました。これにより、村上城は「越後の名城」として知られるようになります。
その後も本庄氏は上杉家臣として仕えましたが、豊臣政権下で改易され、中世の本庄城時代は終わりを迎えました。


■ 近世城郭への発展 ― 堀氏の大改修

慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封に伴い本庄氏は村上を去り、代わって堀秀治の与力・村上頼勝が9万石で入封。西国の築城技術を取り入れて石垣や堀を備えた城へ改修を始めましたが、頼勝の死により中断します。
その後、元和4年(1618)に越後長岡から堀直竒(ほりなおより)が10万石で入封。元和6年(1620)頃、三層の天守を築き、堀と土塁をめぐらせた総構えの城郭を完成させました。
また、城下町の区画整理や羽黒神社の遷宮なども進め、現在の村上城下町の骨格と文化的基盤を築きました。


■ 松平期と村上藩の最盛期

堀家断絶後、慶安2年(1649)に**松平直矩(まつだいらなおのり)**が入封し、蒲原四万石の加増を受けて十五万石の大藩となります。寛文3年(1663)から大規模な普請が始まり、唐破風を備えた華美な天守や多くの櫓が新築されました。
このころの村上は城下人口約1万8千人を数え、越後屈指の城下町として栄えました。
しかし寛文7年(1667)に天守が落雷で焼失し、以後再建されることはありませんでした。


■ 内藤氏の治政と藩政の安定

18世紀初頭には藩主交代や減封により一時衰退しましたが、享保5年(1720)に内藤弌信(ないとうかずのぶ)が入封。以後、八代・約150年にわたり内藤家が藩政を担い、幕府の信任も厚い安定した統治が続きました。
内藤氏は堆朱(ついしゅ)工芸や鮭の増産
など地場産業を奨励し、村上の特産文化を育てました。城郭の維持管理も行われ、堀や石垣の修復、桝形の整備などが記録に残っています。


■ 戊辰戦争と村上城の終焉

幕末の戊辰戦争では、譜代大名であった村上藩が奥羽列藩同盟に加盟し新政府軍と交戦しましたが、藩内は恭順派と抗戦派に分裂。若き藩主・内藤信民(のぶたみ)は恭順を唱えたものの、意見がまとまらず自害に至りました。
家老鳥居三十郎
ら抗戦派は庄内へ脱出して戦うも敗れ、鳥居は戦後、責を負って切腹。これにより村上藩は取り潰しを免れました。
明治3年、最後の藩主**内藤信美(のぶとみ)**が村上県知事に就任し、城郭の破却を政府に届け出ます。明治8年までに天守台を除く建物や門はすべて解体され、村上城は完全に姿を消しました。


■ 現在の村上城跡

現在、臥牛山の山頂には本丸・二の丸・三の丸の石垣や天守台が良好に残り、山麓には外郭土塁や下渡門跡も確認できます。
中世の竪堀や曲輪跡と、江戸期の石垣が同じ場所に残る姿は全国的にも貴重で、中世山城と近世城郭が融合した史跡として高く評価されています。
その歴史的価値から、平成5年(1993年)に**国史跡「村上城跡」**として指定されました。
今もなお、石垣に囲まれた山頂からは村上の町並みと日本海を一望でき、往時の雄姿を偲ぶことができます。

構造と見どころ

御城印・続日本100名城スタンプ