概要
●名 称:一般財団法人 村上城跡保存育英会
●目 的:村上城跡を保存する事業を行い、市民の憩いの場としての健康増進及び歴史文化の育成に寄与することを目的とする。
●事業内容:
・国指定史跡「村上城跡」の保存
・県指定保健保安林の維持管理並びに保健活動
・青少年への教育助成と啓発
・歴代藩主並びに旧藩時代に功績のあった者及び戊辰の役殉難者の祭祀供養
・広報誌の発行、その他この法人の目的を達成するために必要な事項
●所 在 地:新潟県村上市二之町7-3
沿革
村上城跡保存育英会の源流は、江戸時代の村上藩政期にまで遡ります。
村上を流れる三面川は、古くから鮭の遡上で知られ、歴代の村上藩主は鮭漁を公業として、運上金を藩財政の重要な財源としてきました。鮭資源の保護と利用を通じて、治水と産業を両立させる体制が築かれていたのです。
明治維新により藩政が終焉を迎えると、版籍奉還(明治2年・1869)および廃藩置県(明治4年・1871)により、三面川や村上城は官有地となりました。これにより、鮭漁から得られていた収益も新政府に帰属することとなり、家禄奉還によって生活基盤を失った旧村上藩士たちは、新たな生業を模索することとなりました。
こうした状況のもと、旧藩士たちは再び三面川の鮭に活路を見出し、資金を出し合って、明治5年(1872)以降、有償で河川を借り受ける形で漁業権を取得しました。明治11年(1878)には鮭の人工孵化事業が開始され、明治15年(1882)、旧武家町(後の村上本町)に籍を有する旧藩士736戸による共同経営体として「村上鮭産育養所」が結成され、三面川の鮭漁は本格的に組織化されました。
一方、村上城は、明治5年(1872)に城内の建造物や立木などが入札に付され、明治6年(1873)以降、全国的な廃城の流れの中でその役割を終えました。旧藩士たちは、村上城の城地を政府から買い戻し、明治8年(1875)までには旧藩士たちの共有地となりました。以後、臥牛山(お城山)を中心に、殖産事業としてスギの植林と森林経営が行われるようになりました。
村上鮭産育養所は、鮭漁および人工孵化事業によって大きな収益を上げ、その利益は河川管理や施設整備に加え、旧藩士子弟の教育に重点的に充てられました。明治11年以降の村上本町学校の建設・運営への多額の支援をはじめ、授業料補助や奨学金貸与などの育英事業が継続的に実施されました。
こうした教育・公益事業をさらに充実させるため、村上鮭産育養所は、大正6年(1917)、育英事業部門を独立させ、「財団法人村上鮭産育養所公益部」の設立を政府に申請し、翌年に認可を受けました。同法人は、鮭漁収益および臥牛山などの森林経営による収益を財源として、教育支援事業を担うこととなりました。
戦後、昭和24年(1949)の漁業法制定および昭和26年(1951)の改正により、従来の漁業権に関する既得権益が消滅したことにより、三面川の鮭漁は漁業協同組合に引き継がれましたが、育英事業は継続されました。
昭和31年(1956)には事業目的に村上城跡の保全が加えられ、翌年、臥牛山の麓へ現事務所を設立し、昭和34年(1959)、組織は「財団法人村上城跡保存育英会」へと改組されました。
昭和47年(1972)には、城跡への大規模開発計画が提案されましたが、史跡の保存を重視する立場からこれを拒否しています。
平成24年(2012)、一般財団法人へと改組され、現在に至っています。
本会は、藩政期以来連綿と受け継がれてきた「鮭の恵みをもって人を育て、郷土を守る」という精神を継承し、村上城跡の保存と教育・文化の振興に取り組んでいます。
役員一覧
令和7年6月1日現在
| 理事長 | 藤田 俊彦 |
| 業務執行理事 | 小島 盛和 |
| 理事 | 村田 和彦 |
| 理事 | 稲葉 大和 |
| 理事 | 福井 悦子 |
| 理事 | 大竹 憲一 |
| 理事 | 小島 卓 |
| 監事 | 赤坂 浩一 |
| 監事 | 青砥 哲平 |
| 評議員 | 松山 勝彦 |
| 評議員 | 永井 昭榮 |
| 評議員 | 板垣 恭子 |
| 評議員 | 竹内 宏 |
| 評議員 | 渡邉 憲一 |
| 評議員 | 渡邊 矢一 |
| 評議員 | 渡辺 勝男 |
| 評議員 | 鈴木 崇 |
| 評議員 | 倉松 礼子 |
| 評議員 | 相馬 康廣 |
| 評議員選定委員(外部委員) | 渡辺 貫造 |
| 評議員選定委員(外部委員) | 山脇 崇 |
理事長挨拶 ▶
村上の鮭物語 ▶
村上になくてはならない“鮭”
しかし かつて鮭が全く獲れなくなった時代がありました
村上の鮭文化を知るうえで欠かせない その物語をご紹介します

臥牛山(お城山)麓の育英会事務所